アメコミホリデイ

アメリカンコミックスの魅力に目覚めて以来、日々楽しく周辺文化に接しています。アメコミに関して感じたことをつれづれ綴っていこうと思います。 なにぶん始めたばかりのブログですので、お気が向きましたらリンクや記事のご紹介等して頂けますと、とても励みになります。

デコボコ星人はファンタスティック・フォーとの邂逅に時の涙を見るか - 宇宙忍者ゴームズ、シークレット・インベージョン アメコミ特有の奇妙な感動 -

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 神田の古書店にて光文社の邦訳『キャプテンアメリカ』に巡り合った。これは非常に嬉しい。幸運である。昭和53年(1978年) 10月15日に刊行された物だ。

 

 この時期光文社からは小野耕世氏翻訳によるマーベルコミックスシリーズが続々刊行されており、キャプテンアメリカはその中の1タイトルである。

 

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 光文社版は切り良く『Captain America』#100 からスタートして順に物語を追っていく形を採っている。

 

 #100、つまり100号目からのスタートとなっているが、これは戦後復活したキャプテンアメリカがゲスト登場後レギュラー化したテイルズオブサスペンス誌の号数が#100を迎えるにあたり、同誌を『Captain America』誌へと改題したものであり、キャプテンアメリカ個人誌としては戦後初の正式再開のタイミングとなる。少々ややこしいが、つまりは戦後のキャプテンアメリカ誌、第1号ということだ。

 

 ストーリーは直前のテイルズオブサスペンス誌#99から続いているものだが、#100の冒頭では、数ページにわたってキャプテンアメリカが氷漬けの状態から復活する経緯が、ジャック・カービィ自身によって新たな絵で描きなおされている。この#100を心機一転区切りのスタートとし、新たな読者に対して改めて主人公の紹介をするというねらいが、しっかりと企図された構成だ。

 

 そしてそれらのページは気絶したキャップの回想であり、彼の意識の混濁が晴れるに伴って、前号からの続きであるところの最終決戦の最中へと場面は繋がる。この演出は現在も脈々と受け継がれている映画的なカット替えの手法であり、非常に気が利いていて盛り上がる。建前上の区切りが演出にも好影響をもたらしていて感心した。 

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 また、#100以降のエピソードでも何本かがそうなのだが、まず最初にアクションシーンから始まり、その後事件のあらましの説明に入るという構成が採られているのが素晴らしい。冒頭で早々に掴む必要があったからこその演出であろうが、こちらも映画におけるオープニング・アクションと同様の効果を狙った演出であり、非常に興味深い。

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 劇中の象徴的なシーンが表紙絵になっている、というのとはまた違う。シーンそのものから始まるという点が肝だ。小野耕世氏によると、この時期のマーベルコミックス、特にキャプテン・アメリカではまま行われていたことらしいが、この構成は一体どこから、誰から、始まったものか。ジャック・カービィキャプテン・アメリカは特に躍動感に満ちたアクションが全面展開されるのが大きな魅力であり、彼氏のアートスタイルが自然と呼び込んだ流れであったようにも推察されるのだが…。この辺、不勉強にて正確なところが不明な為、いずれ調査してみたい。

 

 それにしても新書版サイズながらジャック・カービィ一流のアートをしっかりと堪能できる点が嬉しい。巻頭数ページしかカラーではないのが残念ではあるが、これはこれで“エッセンシャル版”だとでも思って楽しむことにする。

 

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 ところで、アメリカンコミックス、特にスーパーヒーロー物を楽しむ上での大きな喜びのひとつは、DCもマーベルもそうだが、開始当初からの長きにわたる歴史の積み重ねを味わえるという点にあろう。

 

 両社それぞれで扱いに微妙な違いはあるが、基本的にはユニバース開始当初からの物語は全て地続きの物であるとされるため、50年…時には75年程も前の古い作品に触れることさえ、現在のストーリーを楽しむ上でも直接利がある行為となるのだ。これはアメコミ世界における非常に大きな魅力である。

 

 コミックスの中での特に大きな出来事は、実際の世界の歴史と同じように、それぞれのユニバースの歴史として積み重なっていく。“○○事件”という風に、その世界の共通認識として、その時々のストーリーが歴史上の出来事のように蓄積していくのである。

 

 そのため、古い作品に触れる場合には、遥か過去に起きた事件の、さながら直接の目撃者となれる喜びがあるわけである。たとえば、現実の歴史研究者が新発見した第一次史料を紐解くときの興奮などは察するに余りあるが、場合によっては古文書であろうそれらの史料が、なぜかBlu-rayの映像ディスクで保存されていたかのような物だ (…コミックスなのだが)。過去に起こった出来事を、映像的にと言おうか、まさに直接目にすることができるわけだから、感慨と喜びもひとしおである。

 

 『宇宙忍者ゴームズ』というアニメーション作品がある。ファンタスティックフォーのアニメの日本語版だ。本国アメリカで1967年〜1968年にかけてテレビ放送された『The Fantastic Four』が日本で放送されるにあたり、ローカライズされた作品である。 

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 日本での放送は1969年であるが、この外国のアニメを吹き替えるにあたり、いかにも当時的なおおらかな翻案がなされているのが、このシリーズの特徴である。

 

 登場人物の名前は、日本人にも幾分馴染みが良いように変更されている。主人公のMr.ファンタスティック:リード・リチャーズは“ゴームズ”(頭脳派かつ、体が伸びる特殊能力を持っているため、ホームズ+ゴムということらしい)、ヒューマントーチが“ファイヤーボーイ”になる等である。ゴームズという名前がわかりやすいかどうかは不明だが。

 

 また「ハヤシもあるでよ」でもお馴染み、南利明が普段の調子そのままの名古屋弁で“悪魔博士”ことDr.ドゥームの吹き替えをしている等、全体的に独自の遊びが入った非常にゆるい、ユーモラスなトーンに変更されているのが特徴である。

 

 とはいえ、原語だと反してシリアスなトーンだという訳ではない。比較的忠実に原案であるコミックスのテイストの再現を目指しているため、硬軟取り混ぜたエンターテインメントとして、初期のファンタスティックフォー名作選的な仕上がりになっている。アニメそのものはハンナ・バーベラ社が製作したクオリティの高い物であるし、コミックスの有名エピソードがそのままアニメで楽しめるということでもあり、本作はその観点からも意義があると言える。

 

 “デコボコ星人”こと、異星人スクラル人の襲撃を描いた回では、デコボコ星の王様により地球に送り込まれた戦士“スーパーバッド”ことスーパースクラルが、ファンタスティックフォーと対戦する様子が描かれる。

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 デコボコ星人は変身能力を持った異星人だが、スーパーバッドはさらにその中の超人兵士である。ファンタスティックフォー4人の能力を一人で併せ持っている強敵だ。激闘の末、彼を下したファンタスティックフォーは、その処遇を検討する。命乞いと共に地球への亡命を嘆願するスーパーバッド。収監したとしても変身能力で脱獄必死である。ならばどうすべきか…

 

 ゴームズ「牛か馬の姿になるなら地球に置いてやろう」

 

f:id:RBR:20161216160021p:plain f:id:RBR:20161216160147p:plain  え…

 

f:id:RBR:20161216160049p:plain ンモー

 

 かくして乳牛に変身させられたスーパーバッドは、ファンタスティックフォーの温情によって、二度と悪さをすることのないよう催眠術によって記憶も消去され、命を奪われるようなこともなく、余生を牛として生きていくことになったのでした。一同ハハハと談笑し、めでたし、めでたし。

 

 いや、めでたしではない。どうにも突っ込まざるを得ない状況である。第一、なぜ牛なのか。本人の記憶と自意識に関わる脳機能を休眠させ、知能レベルを落とした上で、あくまで牛として生かしておくという残酷極まる処遇を、いや人道的だなあと、さも良きことげにあっけらかんと納得されるなど、なんたる不条理な事態であろう。確かにデコボコ星人は地球征服を目論んだ凶悪な敵性異星人には違いないので仕様がないのだが…どうにも可哀想な気がしてしまう。

 

 しかしそこはゆるいトーンのアニメ。このゴームズのトンデモ発案に対して、他のメンバーも諸手を挙げて賛同、ガンロックなどは「良かったなお前、よしよしいい子だ」と元デコボコ星人を愛でる始末。ハッピーな雰囲気の音楽がエンディングとして流れ終幕となった。この状況の余りのシュールさには大いに戸惑い、また笑ったものであった。

 

f:id:RBR:20161216204209p:plain うーんいい子いい子

 

 その後私は全く別の状況、マーベルコミックス本誌の方で2008年に展開されたクロスオーバーイベント『シークレット・インベージョン』を読んでいる最中、とあるセリフに心を揺さぶられることになる。

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 『シークレット・インベージョン』は、かつて何度となく退けられた、あの“デコボコ星人”ことスクラル星人が、とうとう全勢力でもって地球への決定的な最終侵攻を行うという一大クロスオーバーである。いかなる技術でも見破ることができない完全なる擬態術の開発という技術革新に裏打ちされた、種族総出の一大決起だ。

 

 当時マーベルユニバースの旗艦誌となっていたニューアベンジャーズを手がけていたブライアン・マイケル・ベンディスのライティングによるもので、2004年以降続いてきたベンディス期において数年にもわたって仕込まれてきた伏線が一挙に起動する怒涛のイベントであり、規模的にも、サスペンス的にも大いに盛り上がる、マーベルユニバース全体を巻き込んだ一大巨編である。

 

 そのような惑星と種族の命運をまるごと賭した決死の作戦を発動するにあたって、宿命の相手であるファンタスティックフォーとの決戦を前に、スクラルの王は侵略計画の一部である彼らのクローンを前に思わずひとりごち、こう述懐する。

 

 スクラル王「あろう事か、この原始人は我が血族を牛に変えおったのだ…!!」

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 そう、“デコボコ星の王”ことスクラルの王は、かつて仲間を牛に変えられた件に関して、未だに恨んでいたのである…!未だに…!1967年から2008年であるから、なんとまあ、41年後の話だ。

 

 このスクラル王、アニメでもコミックスでも同じ容貌のまま。確かにかつて『宇宙忍者ゴームズ』でスーパーバッドを地球に送り込んだ、かのデコボコ星人の王、その人である。デコボコ星人はあれからずっと復讐の計画を進行していたわけだ。

 

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 実に40年越しの恐るべき怨嗟の声、魂の叫びであり、その屈辱の深さの程は察するに余りある。なんといじらしく哀れな執念であろう。これほどまでの怨恨を呼び起こした、かの牛事変は、翻って見るに、やはり残酷な処遇だったのだと思わざるを得ない。発案者のMr.ファンタスティック他、諸手を挙げてそれに賛同したファンタスティックフォー各員は、些少なりとも反省して欲しいものである。

 

 尚、『宇宙忍者ゴームズ』でのエピソードの元ネタは1962年『The Fantastic Four #2』でのスクラル人初登場話である。アニメでは、のちに登場するスーパースクラルの話がブレンドされているが、牛の件はそちらが出典だ。

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 そしてもちろん牛にした件というのは、そもそもは単なるマンガのオチである。本来であれば無論それ自体について深く考えるほどのことではないし、ちょっと気の利いたひとネタのはずであったろう。多くを語らず、最後の一コマでさらりと顛末を提示する、スマートな流れである。

 

 そして、本来はそんなささやかな洒落であったにも関わらず、件の出来事は実時間として実に40年以上もの時を経てなお言及されるのである。しかも、ことを重く深く受け止めている当事者による気持ちのこもったセリフとして。

 

 無論、正確を期せばアニメとコミックスの世界は別物ではあるし、現実的に考えると、戦争の遺恨ともなれば40年程度で解消できる物ではないかもしれないが、それにしても1962年当時のコミックスと2008年のコミックスでは、絵的な雰囲気も話のトーンも大きく変化している。にも関わらず、きっちり話が続いていることを実感させるような箇所が不意に出現するのだから面白いのだ。これは非常に不思議な感覚である。

 

 かつては軽い話だったエピソードが、急に意味深な事件として扱われたりすると、どうにも可笑しみが込み上げてくるし、実際のコミックスが辿ってきた歴史的な変遷なども思い起こさざるを得ず、メタ的な視点も自然と立ち上がってくる。ほんの一瞬に、一度期に、実に色々な感慨が入り混じった複雑な感動を覚えることになる。

 

 このアメイジングとしか言いようのない一種独特の感慨こそが、めまいのするような感覚をもたらしてくれるのだ。他の世界ではなかなか発生しない、特別な感動である。マーベルやDCを追いかける上での大きな喜びであり、私がコミックスに触れる上での大いなる楽しみなのである。

 

 デコボコ星の王も、さぞや艱難辛苦の道を経てきたことであろう。ユニバースの中の時間経過は実時間とは異なったふんわりとした進行なので、劇中でもはっきりと40年経っている訳ではないが(本気で勘定を始めてしまうと無論ファンタスティックフォーの年齢がおかしくなる)、どうにも彼氏の境遇に思い入れてしまうのであった。

 

 アメリカンコミックスは歴史の蓄積も大いなる財産である。過去の名作の輝きは今後とも増していく一方であろう。翻って、日本においてはそのようなクラシックな作品の価値と魅力が、十分な分量とともに紹介されているとは言えず、歯がゆいばかりである。是非とも出版社を問わず、クラシックな作品の魅力を多く伝える邦訳本の出版が増えることを願ってやまない。それはそのまま、他では味わえないアメコミ独自の感動を伝える作業と、同義であるのだから。

 

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