アメコミホリデイ

アメリカンコミックスの魅力に目覚めて以来、日々楽しく周辺文化に接しています。アメコミに関して感じたことをつれづれ綴っていこうと思います。 なにぶん始めたばかりのブログですので、お気が向きましたらリンクや記事のご紹介等して頂けますと、とても励みになります。

映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ (Captain America:Civil War)』の副読本としての『愛が微笑む時 (Heart and Souls)』

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今回は映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ Captain America:Civil War』(2016) の副読本…ではなく副読映画とでも言おうか、ちょっとしたサブテキストとして、お勧めしたい映画を紹介する。

 

 お勧めする理由はごくピンポイントなものだ。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の冒頭、ロバート・ダウニーJr.演ずるトニー・スタークの元に、とある中年女性が現れ、詰め寄るシーンがある。そのシーンは作品全体の背骨を成す非常に重要なパートであり、わずか数瞬の内に潤沢なニュアンスが込められている味わい深いシーンなのだが、今回紹介する映画はそのシーンに密接に関わっている作品なのである。

 

まずはそのシーンの概要を紹介する。

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大学でのプレゼーテーションを終えたトニーは、終演後、楽屋裏で自分のことをおそらく待ち伏せていたらしい女性を目にし、若干の警戒の姿勢を傾けながら近づいていく。

 

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表面上何気ない風を装い紳士的に会話をするトニーであるが、女性がバッグに手を入れた瞬間、思わず咄嗟に彼女の腕を押さえつける。が、彼女がバッグから取り出したのは、トニーが身構えるべき拳銃ではなく、とある少年の写真であった…。

 

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 少年の写真は彼女の息子のものであった。映画としての前作である『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン Avengers:Age of Ultron』(2015) で起きた“ソコヴィア事件”で都市が丸ごと壊滅した際、その渦中に巻き込まれて少年は亡くなっていたのだ。息子の無念を想い、その責任の一端を持ちうると思われるアイアンマンその人であるトニー・スタークを糾弾するために、彼女はやってきたのであった。

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かの“ソコヴィア事件”が一般にどういう報道をされているのかは、劇中の描写からは不透明だが、事実としてアイアンマン、そしてアベンジャーズは、息子を救えなかった。億万長者トニー・スタークは慈善事業への寄付も惜しまず、被災者への手当も厚かろうが、それでも死者は蘇らないのだという事実は変わらない。

 

あまりに明白なただそれだけの事実を、それでも一言、直接本人へと宣告するべく、遺された者だけが直に伝えられる言葉を胸に、彼女はトニーの元を訪れた。糾弾…と言っても、彼女に、何か具体的な要求があるわけでは無い。それでも、やり場の無い無念をぶつけるべく、行動を起こさずにはおれなかったのであろう。言葉にするに忍び無い、深い無念を湛えた、痛ましい風情である。

 

「息子の仇討ち “avenge” は誰がしてくれるの?あなたがあの子を殺したのよ…」そう言い残し彼女は去っていった。

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やや神経過敏になっているトニーの精神状態と、追い討ちをかけるようにトニーを責め立てる事件被害者の遺族。一般にスーパーヒーローと呼ばれる超人たちを国連の管理下に置くべきとする“ソコヴィア協定”への参加の是非を巡って、のちにキャプテン・アメリカと対立するに至るトニーの行動原理が、このシーンによって裏付けられていく。

 

繰り返しになるが、この一連のシークエンスは、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』全体の背骨を成す、非常に重要なシーンである。主人公であるキャプテン・アメリカの心象描写は別のシーンで行われるが、この映画のプロットの根幹を成す、もう一人の人物、キャプテン・アメリカと対立するアイアンマンの行動原理を裏打ちする出来事として、かのシーンはドラマ上、非常に重要な機能を果たしている。

 

その重要性はBlu-ray収録のオーディオコメンタリーにおける、本作監督のルッソ兄弟による証言からも明らかである。彼らが撮影の際にも、かのシーンを当初から非常に重要視していたことが解説されている。

 

また、シチュエーションとしては二人の対話シーンでありながら、映像としては二人を同じ大きさでフレームに収めることはなく、さらに終始カットバックでシーンを構成している。二人の視線を直接交えないようにすることによって、彼らの想いがすれ違っている様を映像上でも表現しているのである。

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オーソドックスな演出だが、実に的確だ。何気ないシーンに細やかな気遣いが出来ており、誠に正しい映画的表現と言えよう。ルッソ兄弟は取り立ててコミックスファンという訳ではないのが、肝心要の玉に瑕ではあるが、その演出技法は確かなものであり、紛れもなく正統派の映画人であることが伝わって来る。

 

注目したいのは、このシーンでロバート・ダウニーJr.との息詰まる切実なやり取りを、抑制の効いた演技で魅せているアルフレ・ウッダードである。 

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 アルフレ・ウッダードは数々の賞に輝く非常に優れた演技派の実力女優であるわけだが、実はこの役に彼女を指名したのは、他でもないロバート・ダウニーJr.なのだ。

 

一連のシーンの重要性を鑑みたダウニーJr.が相手役としてアルフレ・ウッダードを指名したこと、二人が見せたアンサンブルの妙が、かのシーンのクオリティを格段に上げたとのエピソードが、監督兄弟によって紹介されていた。

 

そして、ロバート・ダウニーJr.とアルフレ・ウッダードと言えば、1993年のロン・アンダーウッド監督、ロバート・ダウニーJr.主演の『愛が微笑む時 (原題:Heart and Souls)』なのである。

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 『愛が微笑む時』はハートウォーミングなコメディ映画であり、快い感動作としても有名であろう一作だ。そこでロバート・ダウニーJr.とアルフレ・ウッダードは、擬似親子的な関係になる人物を演じて共演しているのである。

 

『愛が微笑む時』の物語は、ディケンズのクリスマスキャロルを元ネタにしたものだ。

 

以下、『愛が微笑む時』のあらすじを紹介する。

 

とあるバス事故により落命した4人の素性の異なる人物たちが、この世への未練ゆえに、事故現場の近くに偶然いた幼児に取り憑くことになる。(アルフレ・ウッダードはこの4人の中の一人であり、三児の母であり、働くシングルマザーである。)

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幽霊になってしまったがゆえの性質のためか、取り憑いたその幼児の周辺から離れられない4人は、成り行き上、幼児の成長を見守ることになってしまう。しかし元より人の良い人物が揃っていた為、全員がその子に愛着を持ってしまい、幼児の実の両親とは別に、実質的に4人も子育てに参加するような形になる。幼児には4人が見えているのである。幼児はやがて成長し少年となる。

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 しかし彼ら4人の姿は少年本人にだけ見えている状態であった為、“見えないお友達”とばかり遊んでいる息子の様子を心配する、彼の両親の状況を鑑み、4人は断腸の思いで少年から姿を隠し、彼のことを本当の意味で見守るだけの状態になることを選ぶ。

 

さらに時は経ち、青年へと成長した少年は、かつての素直な良い子の姿から様変わりし、やり手の銀行マンとして、切れ者だがいけ好かない拝金主義のプレイボーイに成り果ててしまっていた。軟派なスクルージとでも言おうか。大好きだった4人の友達が突然姿を消したことが心の傷となり、少々グレてしまったわけだ。その青年トーマス・ライリーを演じるのが、ロバート・ダウニーJr.なのである。

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そんな中、トーマスと幽霊4人組の元に十数年ぶりに天国からの“お迎え”が唐突に現れ、4人が現世に留まれる時間が、残りあと僅かだと告げられる。実は4人が成仏できていなかったのは、現世での心残りを解消するために、神様が猶予を与えて下さっていたからなのだという。だが、何の説明もなかったため、4人はトーマスの成長を見守り、ただ時を過ごしてしまっていたのである。おお、神よ…。

 

と同時に、勢いで4人の幽霊はトーマスの前に姿を現してしまう。トーマスは十数年ぶり、少年の頃ぶりに大好きだった彼らに再会する。突然姿を消した彼らに対して、ある種、裏切られたかのような気持ちを抱えたままのトーマスではあったのだが、実際に今、現世を自由に行動出来るのは自分だけであるし、かつて大好きだった彼らのためである。僅かな残り時間が迫る中、彼らがこの世でやり残したことを達成すべく、協力することを決めるのだ。

 

そしてこれよりトーマスと幽霊4人組の、仲直りとその無念の解消を賭した凸凹珍道中が開始するわけである。

 

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独自のルールが多く、あらすじの解説が少々長くなってしまった。恐縮である。

 

とはいえ、そうなるのも、ある程度止むを得ない。というのも、『愛が微笑む時』は少々プロットに混乱がみられる映画でもあるのだ。

 

タイトルロールに注目して頂くと分かるのだが、『愛が微笑む時』は脚本家が4人以上クレジットされている作品である。そして、ハリウッド映画で脚本家が4人以上クレジットされている作品というのは、多くの場合、ほぼ間違いなく、それ以上の人数が関わっていることが大半なのである。

 

映画の世界にはノンクレジット契約での仕事がままあるが、脚本に関してはこの率が高い。スクリプトドクターが入って、大小の助言をしたり、リライトをすることがあり、多くの場合はスタッフロールにクレジットしない形での仕事ということになる。“脚本家が4人以上クレジットされている”という状態は、脚本の調整に多数の人が関わってますよ、という目印のようなものなのだ。

 

そして多数の脚本家が関わっている作品というのは、得てして撮影の方向性に多少の混乱があった作品であることが多い。途中で物語の方向性が変わる、スケジュール変更の都合で俳優の都合がつかなくなる、全体構成をリライト中であるにも関わらず押さえていたロケ地の契約期限が来てしまい見通しが不透明なままとにかくシーン単体は先に撮影せねばならない…など、(お、恐ろしい…) 想像するだに不憫な現場的な事情に対応するために、脚本上も細かな調整が必要だったのであろうという推測が、自然と成り立つわけだ。

 

事実、『愛が微笑む時』は、その設定が本来持っているポテンシャルほどには、プロットそのもので感動的なストーリーテリングを呼び込めているわけではない。おそらく初期案のままでは進められなくなってしまったなど、なんらかの事情があったのだろう。ややぎこちない話運びなのである。なのだが、主演のロバート・ダウニーJr.の歌って踊れる器用さと卓抜した演技力を大事に活かそうとする賢明な構成にはなっており、その他脇を固める名うての役者陣の熱演、名演も相まって、多少のプロットの混乱を吹き飛ばすような、快い一作になっている。

 

ちなみにこれは余談だが、プロットの混乱がみられる映画には、ちょっとした見分け方がある。そういった映画は、商品パッケージやWebサイトなどに書かれてある“あらすじ”の内容が、それぞれで微妙に違っていたりするのである。

 

各々の紹介文を読んでいると、誰がどうなってこうなって、という部分がいまいちよく分からなくなってくるのだ。特に主人公が誰なのかが分かりづらい場合があり、『愛が微笑む時』はこれに当てはまる。そして実際、映画本編も幽霊4人組の視点から始まり、主演のはずのダウニーJr.が出てくるまでにかなりの時間がかかってしまっているのである。幽霊が主役のようでもあるし、青年が主役のようでもあるし、しかし青年自身が物語の主題になるほどの執着は抱えていないし…といった塩梅だ。

 

ちなみにこの見分け方は、映画監督の三宅隆太氏が以前イベントで紹介していたものである。実際そのつもりで映画のパッケージをTSUTAYAなどで参照し、同時にタブレットなどでも情報を検索してみると、それだけでなかなかに面白い。一体何を言ってるんだろう…という程にも混乱しているものもあり、思わず笑ってしまう。

 

だが、『愛が微笑む時』がそうであるように、プロットが多少混乱しているからといって、映画そのものの出来が悪いとは限らない。そこは御自身の直感を働かせて、映画作品への敬意と愛情を持って接して頂けると幸いである。

 

閑話休題

 

何にせよ、アルフレ・ウッダードは『愛が微笑む時』の中で、肝っ玉母ちゃん的な母性を発揮し、会えない我が子たちへの想いを胸にしながらも、ダウニーJr.の成長を我が子のように見守る役柄を、愛嬌たっぷりに魅力的に演じている。

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おそらくロバート・ダウニーJr.は『愛が微笑む時』以来の縁と交流があり、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でも演技派たる彼女を指名したのであろう。実に納得の配役である。

 

そういうわけで、旧知であるアルフレ・ウッダードとダウニーJr.二人の演技アンサンブルが冴え渡るのはもちろんであるが、さらには『愛が微笑む時』では親子のような間柄をハートウォーミングに演じた二人である。翻って『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では、子を亡くした母が、その無念を託すような関係となっており、ある種これは『愛が微笑む時』の関係性の変形とも言える、意味深な構図でもある。だからこそ、『愛が微笑む時』が前提にある場合、シビル・ウォーでの件のシーンの味わいが、2重3重に増してゆくのである。

 

またしても、ロバート・ダウニーJr.は、母子の想いを託されてしまったのだ。

 

 さらには『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の冒頭では、若かりし頃のトニー・スタークが登場する。1991年時点、恐らく年の頃25、6歳の時分であろう。この若きトニー・スタークを、なんとCGで若々しく補正されたロバート・ダウニーJr.本人が演じるのである。 

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そして25、6歳というのは、子役の頃からキャリアをスタートし、演技派で鳴らしたダウニーJr.が、まさしく『愛が微笑む時』で主演していた頃の歳なのだ。映像加工スタッフが実際に参考にしたのは『レス・ザン・ゼロ Less Than Zero』 (1987) だそうだが、近い時期と言って良いだろう。実に奇縁である。(レス・ザン・ゼロと言えばロバート・ダウニーJr.と仲の良いジェームズ・スペイダーの話をしたくなるが、それはまた今度)

 

また『愛が微笑む時』でのダウニーJr.は、彼氏お得意の傲慢で鼻持ちならない嫌な奴という役柄なので、トニー・スタークがオーバーラップするような人物像でもある。床に寝そべったまま物を食べる、これぞダウニーJr.というような、彼氏一流のやんちゃな所作も見て取れる。

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後の映画版トニー・スタークのキャラクター造形にも取り入れられたであろう、実にシンボライズな所作である。そういう意味でも、マーベルスタジオ製の映画から、ロバート・ダウニーJr.のファンになった方々へもお勧め出来る作品だと言える。彼氏一流の惚れ惚れしてしまうような歌唱力まで堪能できるのだから申し分ない。実はロバート・ダウニーJr.は歌唱力も脅威的であり、近年の映画作品でその歌声が開陳される機会は少ないのだが、これは非常にもったいないことである。

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Robert Downey Jr. sings "Man like Me"

 

冒頭で述べたように、これら2作品は接続点こそピンポイントではあるが、多様な視点から映画史的な繋がりを感じることが出来るため、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』を楽しんだ諸氏におかれては『愛が微笑む時』も同様に、興味深く鑑賞することが出来るのではないかと思う。きっと本来の面白さにも増して楽しむことが出来るであろう。お勧めである。

 

映画史的な広がりという意味では、この一件のように、俳優が積極的に映画製作そのものにコミットし、ある種セルフプロデュース的に映画を作り上げていく時の、化学反応的な輝きの素晴らしさというものにも、思い至らざるを得ない。

 

やはり元気な映画というものは、俳優がノっているのである。どのような企画であれ、映画である以上、俳優陣の演技アンサンブルの妙というものが、映画の地力を底上げする。

 

思えば『アイアンマン』第1作があれだけヒットした一因として、監督ジョン・ファブローの貢献を忘れてはならない。彼こそは俳優出身の監督であり、ダウニーJr.やギネス・パルトロウが活き活きと楽しんで演技ができる環境を整え、プロット上必要ないようなお遊びのシーンや小道具まで取り込むことで、俳優の遊び心を含めたアイデアをしっかりと採用した作品作りをしていたわけである。

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これは、その時代までの、いかにもな“CG大作”には欠けていたアプローチである。この俳優の活きの良さを活かした製作体制が功を奏し、『アイアンマン』は現場の空気感をも画面に念写した、実にノリの良い、活き活きとした作品になりえていた。どれだけ器用に構成をまとめようとも、それだけでは実現できない、実に堂々たる映画的な見栄えの部分に勢いがあったのだ。

 

もちろん『アイアンマン』は様々な要素が良く出来ているのだが、単に綺麗に行儀良くまとまっていただけではなく、少し枠からはみ出すような、ある種のマジックをも含んでいたのである。

 

このマジック、ある種の化学反応による勢いが、マーベル映画隆盛の基礎を作り、最初期段階におけるロケット噴射となったことは周知の事実である。

 

ところで、これは雑誌『ユリイカ』2014年5月号での小田切博氏の寄稿文『マーベル映画はなぜ「マーベル」映画なのか』で氏が表していたものであるが、ここで氏は、ディズニーによるマーベル買収に対しては《個人的には残念な気分が強い》という風に述べられており《『アベンジャーズ』以降の「ディズニー映画」として公開されるマーベル映画を見て、内容的にはじゅうぶんに楽しませてもらいながらも少し淋しいような気がするのは、マーベルがディズニーという巨大企業に組み込まれたことでアラドが体現していた「コミックスファンの逆襲」の季節がけっきょく終わってしまったように思えるためだろう。》との一節があり、私にはこの小田切氏の表現が実にしっくり来るのである。

 

田切氏はコミックス業界と映画産業の関わりをその初期から紐解き、“コミックスに無理解な巨大メディアに振り回される零細企業たるコミックス出版社”という構図をひっくり返した『ブレイド』以降のアヴィ・アラド体制下の功績を、コミックスファンが主幹となった映画製作体制への転換、として評価されており、コミックス産業全体史としての視点から優れた評を載せられていらっしゃるため、ご興味を持たれた向きには是非全文を読まれることをお勧めしたい。

 

そんな訳で私としても、その思いには実に共感するところがある。誤解なきように先に述べておくと、小田切氏はあくまで産業の構図と業界史的な流れのことを述べておられるので、それ以上の事を邪推されてはいらっしゃらないであろうとは思うのだが、私としてはそこからの連想が及び、ディズニー配給映画になることで、もしかすると角の取れた安全なシリーズにマーベル映画がなってしまうのではないか、という懸念があり、そうであるならば、やはりこれは残念なことであると個人的には考えてしまう。

 

とはいえ、長々と述べてきたように、ロバート・ダウニーJr.が今なおマーベルスタジオ製映画シリーズに対して非常に意欲的であり、実際に近作においても素晴らしい貢献をしてくれていることは、実に喜ばしく、また有難いことである。マーベル本体がディズニーに買収され、プログラムピクチャーとしての優等生ぶりが上がっていくに従って、下手をすれば、なにかこぼれ落ちてしまいそうなものを、彼らは繋ぎ止めてくれている。

 

もちろん俳優陣以上に勢いと化学反応が大切となる監督であるが、彼、彼女らのフィルモグラフィーの真の傾向を見抜き、一見意外に思えて実はぴったりという、主題となるヒーローの物語に最適な人材を監督に起用するマーベルスタジオの方針は、今後もそのままである。ならば今後とも、優等生的に綺麗にまとまっただけの作品ではなく、何かしら既存の枠からはみ出るような勢いのある作品群が、続々登場してくることであろう。

 

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ならば俳優陣や監督たちは新たなムーブメントを魅せてくれるものと信じようと思う。ウェルメイドに、全体構成という枠の中に小綺麗にまとまるだけではない、コミック狂ゆえの、枠 “コマ” をはみ出す遊び心…

 

つまりそれは、何か想定以上の化学反応、マジックが起こる、アメイジングなことが起こる、マーベラスなことがどんな形であれ起こっているということこそが、マーベル映画の粋と言えるところであり、本質とも言える部分なのではないかと思う、ということである。

 

驚きを、マーベラスを、スタン・リーの理念にも従って、前人未到の映画史的な快挙を本当に達成しつつある現在進行形のマーベルスタジオ製映画に、今後とも注目せざるを得ない。

 

以上である。以下、挿話。

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www.netflix.com

 

アルフレ・ウッダードと言えば、さらにお勧めしたいのがNetflixで配信中の『ルーク・ケイジ』である。彼女は本作においても素晴らしい演技を見せている。

 

『ルーク・ケイジ』はそもそもが非常に優れたドラマであり、ブラックカルチャーの今を体現したその仕上がりと本気度には度肝を抜かれたものであるが、アルフレ・ウッダードはここでもドラマ上最重要と言える役を演じている。

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裏では従兄弟であるマフィアの頭コットンマウスと強力に繋がりながら、ハーレム地区の浄化を目指す剛腕政治家マリア・ディラードを演じている彼女だが、実は根深く巨大なマザーコンプレックスがチラついているマリアの姿を、実に惚れ惚れする繊細さで演じきっているのだ。

 

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鉄面皮のやり手政治家でありながら、実際には少女的な精神性から抜け出ることができないでいる中年女…。この非常に難しいバランスの人物像を、あらゆる微細な表現でもって体現しており、彼女の様子を観ているだけで蕩けそうになる心持ちである。ドラマ自体の演出も高級であり、素晴らしい仕上がりだ。ぜひ御一聴のほどお勧めしたい。

 

しかし思えばNetflixのドラマシリーズとマーベルスタジオ製の映画シリーズはMCU (マーベル・シネマティック・ユニバース) として世界観を共有しているため、アルフレ・ウッダードが二人いることになってしまう…(笑)

 

だがまあ、この程度であれば単純に他人の空似という解釈で構わないだろう。無論であるが、そんな細かい整合性よりも、映像作品としての仕上がりの方が重要なのである。

 

いずれにせよアルフレ・ウッダード氏は素晴らしい女優である。ぜひ諸氏におかれましても、彼女の仕事を様々な機会に楽しんでほしいと願うばかりである。

 

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