アメコミホリデイ

アメリカンコミックスの魅力に目覚めて以来、日々楽しく周辺文化に接しています。アメコミに関して感じたことをつれづれ綴っていこうと思います。 なにぶん始めたばかりのブログですので、お気が向きましたらリンクや記事のご紹介等して頂けますと、とても励みになります。

チャドウィック・ボーズマンを讃えて / 映画以上の何かであった『ブラックパンサー』の本質とは

あまりに痛ましい。

 

気持ちの整理がつかないままではあるが、たまにはそのような刹那の思いを綴ってみる事も必要かと思い、徒然の思いを記してみる事にする。

 

とは言え、私が今ここで記すべきだと思っているのは、悲しみそのものでは無い。真に深い哀悼の意は、氏と実際に近しい間柄であった、家族、そして友人達が捧げるべき物であるからだ。

 

……本心ではない。我々もまた我々なりの喪失の悲しみ、哀悼の意を捧げるのは良いことであると思う。いちアメリカンコミックスファンとして、記すべきことがあると思っているだけである。

 

すなわち、あらためて映画『ブラックパンサー』の価値を確かめる事である。

 

そう、これから、まさにこれから、これからの時代に、必要であった。

 

ブラックパンサー』の力が。

 

Black Lives Matter の時を経て、その先にある猛き高揚として、『ブラックパンサー2』が必要であった。

 

何を大袈裟な、と思う向きはすべからく、全く事の本質を取りこぼしている。

 

ブラックパンサー』とは、単なるヒット映画、いちヒーロー映画では無い。

 

社会現象であったのだ。

 

ハーレムの子供達が『ブラックパンサー』を観に行けるようにと、チケットを寄付するべく運動が起き、実際に学校行事として『ブラックパンサー』の鑑賞が行われた。

 

映画は爆発的ヒット&ロングラン上映を記録し、2018年度の全米興行収入1位を記録している他、『タイタニック』『ジュラシック・ワールド』はおろか『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の興行収入さえも越えている。

 

アトランタ空港では行き先案内版に『ワカンダ行き』の表示が行われ、サタデーナイトライブ他、米国のテレビ番組では両手をクロスさせる「Wakanda Forever !」の挨拶が何度も真似された。

 

まさに全米中を巻き込んだ社会現象となっていたのである。

 

……しかし、どれだけ事実を並べても……特に多くの日本人には、その本質が届かない、理解されない。これを、私は以前から、歯痒く思っていた。

 

もちろん日本でも『ブラックパンサー』は十分にヒットしている。が、そういう問題ではない。

 

映画を観た者でさえ、その本質を理解していない者が、多くいるのである。ただ黒人のメジャーなスーパーヒーローが出現し、それが尊いことであるという(それはそれで掛け値なしに重要な事であるが)、それだけが価値なのではない。

 

映画『ブラックパンサー』中ではさらに文化史的、人類史的な問題が扱われており、何よりもそれだけでなく、その問題に対する根源的解決と解放の兆しまでもが含まれているがために、非常に重要なのである。

 

……だが、その根源的側面が理解されづらい件に関しては、ある程度、致し方ないところはあると思う。

 

単純に、地政学的に遠い場所の話は、実情がよくわからないと言うのは当然のことだからだ。日本において一番遠いそれは中東であり、これはアメリカ等日本と交流の深い他の国との差もあり、さらに理解されづらい。それ自体は仕方がない事である。

 

そのような地政学的な問題は置いておくとしても、ひとつ、日本人がブラックパンサーの価値を今ひとつ理解し得ない大きな要因がある。ブラックパンサーの根源的価値を理解するには、完全な被植民地支配下の状況への理解が必要であり、それがネックとなっているのだ。

 

日本人は、そもそも世界からリスペクトされ慣れている、のである。

 

クールジャパンなどと言わずとも、日本は昔から世界において、極東の島国として特別な扱いを受けて来た。独自の文化を積み立てることが出来たこともあり、たとえお仕着せの幻想であったとしても、それに応える内実も持ち合わせて来た。

 

今に至るもその傾向は続き、日本に生きる現代人諸氏においても、自国の文化が「劣った文化である」などと思ってしまうような意識は無いだろう。

 

しかしそれこそが、黒人系アメリカ人の立場に共感しづらい状況を生んでいる。

 

彼らは、無視をされて来たのである。

 

当たり前のように、自分たちの民族の文化は、取るに足らない物なのだ、という意識を、植え付けられ続けて来たのである。

 

自国の文化に、メディアに、ポップカルチャーに、書物に。意識的にも、無意識的にも、無視をされ続けて来たのである。

 

これをあえて我が国のこととして例えてみるならば……

 

例えば、日本国内におけるテレビ番組のキャストのほとんどが白人であるような状況である。日常的に話す言葉は英語であるし、祖父母が楽しそうに聞いていた美空ひばりの『お祭りマンボ』の、サビぐらいはよく覚えていて歌えるが、すでにちゃんとした日本語は話せなくなっている。フォーマルな場において日本的な要素は存在せず、建築も、内装も全てが他民族の文化に染まり切っているような街並みの中で暮らし、黒髪直毛のままでは醜いとされる空気がある為に、常にビビッドなカラーのウェービーでゴージャスなウィッグを付ける必要があり、その為に地毛が痛み果てて、禿げてきているような状況である(アメリカに住む多くの黒人女性の現況である)。

 

俳優ジョン・レグイザモ氏は、傑作スタンダップジョン・レグイザモサルでもわかる中南米の歴史』において、こう言い放っている。

 

「どうしてお前らの芸術が美術館に飾られて、俺たちのマスターピースは土産物屋で売ってるんだ!」と。

 

これこそまさに、被植民側民族を代表する魂の叫びである。氏は自らのルーツである中南米の被侵略の歴史を語ったわけであるが、アメリカ人として生きる黒人にもまた同様の心情があろう。

 

自分たちのルーツに、文化に、 誇りが持てないのである。

 

それも、誇りを持てなくて当たり前の状況を、社会に強いられているのである。

 

だが、だがしかし、である。

 

このようなことは周知の事実である。もう今までに、何度言われてきた事であろう。

 

「差別は良くない」というお題目を、何度目にしただろう。

 

分かってるって!と思う、どれだけ多くの人々がいるだろう。

 

近年の大作映画『それでも夜は明ける』でさえ、今や米国では学校指定映画であり、教材になっている。

 

なのに、それなのに、状況はまだこの有様である。

 

(昨今の Black Lives Matter 運動のきっかけには、米国警察の行き過ぎた重武装化の問題等もあり、実は中東問題とも直結する、建国以来続く米国の悪しきアイデンティティの問題まで絡んでいるのであるが、ここでは置いておく。)

 

しかし、『ブラックパンサー』は違う。あの作品には、差別的な歴史を軽やかに吹き飛ばす、圧倒的な発明があったのである。

 

まず始めに言っておかなければならないのは、『ブラックパンサー』を評するに際して、あるいは単純に理解しようとして、米国における黒人差別の歴史を第一に持ち出して検証するのは、分かっているようで、分かっていない態度である、という事である。

 

また、鑑賞者の涙を絞り取る、敵(かたき)役キルモンガーが一身に体現する、アフリカンアメリカンが辿って来た歴史と生き様と哀愁でさえ、その本質ではない。人間ドラマやブラックカルチャーへの目配せに目をやるだけでは不十分である。それでは一番の柱を捉えられていない。

 

では、一体何が、『ブラックパンサー』という現象そのものの本質であったのか。それは……

 

「ワカンダ」という架空の国、その存在そのもの、である。

 

「ワカンダという発明」こそが『ブラックパンサー』の肝なのである。

 

「ワカンダ」とは、『ブラックパンサー』劇中に登場する、架空のアフリカの国であり、秘密の資源により密かに欧米列強を遥かに凌ぐ科学技術と文化を築き上げて来たという設定の超大国である。

 

普通はそれだけであれば単なるSFで終わってしまうわけであるが(実際国内の観客の多くはここまでの認識で終わっていると思う)、「ワカンダ」はそのような軽い認識で捨て置けはしない。 

 

ブラックパンサーBlu-rayに収録されている「“ブラックパンサー”という文化」という特典映像内で、本家マーベルコミックスにおいてブラックパンサー誌を担当したライターで、自身もアフリカンアメリカンであるクリストファー・プリースト氏はこう述懐している。

 

完成した映画を鑑賞している最中、ワカンダの様子が画面に展開された場面を観た、まさにその時、である。

 

「第一幕のワカンダを初めて見た時、自分でも予想しなかったほど心を動かされた。自分で自分の感情に驚いたくらいだ。

 

誰にとっても感動的だが、特にアフリカ系の人は、『ブラックパンサー』の第一幕を見れば、あの光景に圧倒されるはずだ。

 

君たち(ライアン・クーグラーら映画製作陣)は我々に示してくれた。アフリカ系に限らず人類が争いをやめ、力を合わせればどんなことも成し遂げられる。

 

あの光景は君たちから、あらゆる人種の子供たちへの贈り物だ。」

 

アフリカンアメリカンの人々は、意識的にも無意識的にも、長年に渡って、自尊心を傷つけられ続けて来た。

 

だからこそ、自分たちの伝統的な衣服が、ダンスが、その文化が、後進国の特異な風習としてではなく、科学技術と一体となった、華々しく堂々たる価値あるものとしてスクリーンに映し出されたその瞬間、それほどまでに、自分という存在の基盤、その土台が肯定されたような感覚が湧き上がって来た訳である。

 

ワカンダとは「もしも欧米列強に侵略されずに歴史が継続していれば、もしかしたらこうだったかもしれない」「あり得たかもしれない、もうひとつのアフリカの姿」そのものなのである。

 

そのビジョンが、いかに値打ちのあることであるのか。もう一歩踏み込んでみる。それはつまり……

 

「悲劇を前提にするしかない、という呪縛から解き放たれた」ビジョンなのである。

 

いくら差別が良くないと言ったところで、反人種差別を標榜する訓話や作品は必ず、歴史的事実を基にするのであれば、実際に起こった悲劇を前提にするしかない。

 

前述した『それでも夜は明ける』も素晴らしく真摯な作品ではあるが、当たり前だがこの呪縛から抜け出すことはできない。『それでも夜は明ける』は重たく苦痛に満ちた容赦ない作品である(ブラッド・ピット氏はこの作品をリスクを冒してまで使命感を持って製作しており、非常に尊敬できる人物である。氏は近年製作者としても素晴らしい活躍をしており、今後とも応援したい所存である)。また、他ならぬライアン・クーグラー氏の処女作『フルートべール駅で』も同様である。

 

それはつまり、事実の再確認、ということでもあり、そういうことも起こり得るという、認識の強化でもある、とも言える。人間の認知とは複雑なもので、実際に目にしたものは、深いショックとともに、身に刻み込んでしまう。

 

そしてまた同時に無意識というのも恐ろしいもので、こんなことが起こっては嫌だ、という不安心理こそが、実際の悲劇を呼び込む呼び水になることもあるのである。

 

もちろん、だからと言って、見ざる聞かざるで良い訳はない。悲劇を繰り返さないために警鐘を鳴らし続けることは、必要不可欠なことである。

 

だがしかし、それだけでは、ダメなのだ。

 

それだけでは、絶対的に足りない。それだけでは、限界がある。

 

なぜなら、悲劇のビジョンがあるだけでは、喪失は、喪失のままだからである。

 

それだけでは、実際に起きた悲劇は、慰められこそすれ、癒されはしないから、である。

 

ならば、果たして、どんな手があるというのだろうか。

 

その答えこそが「ワカンダ」のような発明なのである。

 

それはつまり、スーパーヒーロー物のようなジャンルフィクションが本来的に持つ夢想の力、想像の力のことである。

 

スーパーヒーロー物のような、SF、そしてファンタジーの力を使えば、その想像力で、現実に起こった悲劇を飛び越えていけるのだ。

 

もはや『悲劇を前提にする』必要がなくなるのである。

 

これがいかに値打ちがあることか、お分かり頂けるであろうか。

 

例えば、私の専門は中東文化、イスラーム学なのであるが、どうだろう、日本国内においては、イスラームと聞くだけで何か怖いもの、というようなイメージが広まってしまってはいないだろうか。

 

……と言っても、その答えは承知している。私自身、知人とイスラームの話をする際には、まず軽くギョッとされてしまうことが大半であるし、イメージ的な誤解を解くところから始めないといけないので、一般的にも大筋そのようなものであろうと思う。

 

だがしかし、私にとってのイスラームは、そのようなイメージではない。まずはイスラームの友人たちの人懐っこい笑顔が思い浮かぶし、カルダモンコーヒーの香りに、美しいアザーンの朗唱が思い浮かぶ。

 

何かを見た時、何を思い浮かべ、何を自然と連想するのか。それこそが、重要なのだ。

 

今、アフリカンアメリカンの姿から何を連想するだろうか。

 

まずはオークランドの荒れた地区の様子だろうか。あるいはハーレムだろうか。

 

R&Bにヒップホップ、愛すべきブラックミュージックだろうか。あるいはモハメド・アリだろうか。

 

だがしかし、どのようなカルチャーヒーローを思い浮かべても、植民地支配と黒人差別の歴史からは、どうしても切り離すことはできないし、そうすべきではない。

 

ヒップホップにおける “ブリンブリン” とはすなわち(悲惨な状況の中でもタフに生きた)俺はこれだけ成功したぜ、というアジテーションスタイルであるのだし、ジェームズ・ブラウンの天才的リズムのルーツはやはり黒人文化にあるのであり、モハメド・アリは言わずもがなメディアと戦い、黒人コミュニティの為でもあった苛烈な発言の為に彼らからの反発すらあった人物だ。

 

しかし、現実の悲劇の全てを、飛び越えられたのなら。

 

アフリカンアメリカンの姿からまず思い浮かべるのが、世界中からリスペクトされるモダンな進化を遂げた伝統文化であり、音楽であり、食べ物であり、世界中の誰をも救うスーパーヒーローの姿であるのなら。

 

第一にまず、彼ら自身が、自分たちに対する自己イメージとして、そのようなものを思い描けたのなら。

 

傷つけられ続けて来た自尊心を癒し、自分たちの存在の基盤を、せめても誇りに思えるようにできたなら。

 

それには、想像力が、ファンタジーの力が大きな助けになるのである。

 

現実を嘆くのではなく、怒るでもなく、憎むでもなく、悔やむでもなく、そんな哀しみの全てをすっ飛ばして、本来自分たちはこんなにも素晴らしい存在なのだ!という、最低限の事実を、まず思い出す必要があるのである。

 

そして、現実には悲劇が起きていて、社会も成熟し切っていない今の状況でそれができるのは、スーパーヒーロー物のような、ミラクルが起きる創作の場だけなのである。

 

自分の姿を鏡で見た時、悲しみのイメージよりも先に、ポジティブなイメージが出てくれば、どんなにか良いだろうか。ゲットーから這い上がるサクセスストーリーではなく、当たり前に社会に溶け込み、当たり前に過ごす地点から始められれば、どれだけ良いか。

 

自分たちの文化、ルーツを、恥じずに済む光景。そんな最低限のスタートラインを用意したのが、『ブラックパンサー』だったのである。

 

それはつまり、想像力によって現実の悲劇を超越する、ということである。

 

ブラックパンサー』の価値の本質には、人種も、民族も、国をも超えた価値が存在しているのだ。

 

思えば、経済上の不況ではなく、初めて本当の意味での縮小を経験し、ひいては資本主義というシステムの本質的な限界に直面し、アメリカもまた初めて本気で喘ぎ、変わろうとしている時分である。

 

あるべき社会の形、つまりは誰しもに対して優しく、誰しもが幸せに生きられる社会のビジョンの提示が、これからは益々必要になってくる。

 

あるべき理想的な社会のその姿を想像し、エンターテインメイトの形でそのあり方を見せられるということこそ、愛すべきジャンルフィクションの根源的な力なのであるし、現状への問題提起に終わらず、『ブラックパンサー』のように新たな跳躍を提示する作品が、今後も現れてくれることを期待したいと思う。

 

「Wakanda Forever」

 

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アメリカンコミックスファンとしての補遺

 

ブラックパンサー2』は、しかしだからこそ、今後とも世界にとって必要な作品である。

 

本国でもさっそく『キャスト変更での続編反対』署名活動などが起こっているが、これは当然であろう。marvel映画シリーズも初期はキャストの変更等があったが、あくまで初期のもたつき程度のことである。ファンの心を自ら手放すような、そのような悪手は絶対に行わないだろう。

 

だが、気をつけるべきなのは、ファンの間で同様に声が上がり始めている『(主人公ティ・チャラの妹)シュリを主役にした続編』希望である。

 

これは一見順当に思えるが、実は一番安易な発想であるとも思う。シュリは演者のレティーシャ・ライト氏の圧倒的な魅力もあり、主役にふさわしい人物であるが、それだけではいけない。

 

個人的には、『ブラックパンサー2』も、主役はティ・チャラであるべきだと思う。

 

つまりは、大いなる喪失と、不在を描くべきであると思うのだ。

 

やはり主役の座を継ぐ、ということになると、微妙な話ではあるが、キャラクターとしてもかつての主役の血縁であることは望ましいし、馴染みのある人物としてシュリは適役である。そもそも単独映画の希望すら多々存在していたほどの人物だ。私としても、主役を継ぐならばシュリが良いと思う。

 

しかし、である。

 

例えば、盛大な国葬シーンの後、個人的な思いを綴るシーンが続き……等して、いかにもな映画的事務手続きを経て、急にシュリが主役の位置で立ち回るのでは、いくら丁寧に描写したとしても、結局は、気持ちがついていかない。

 

だから『ブラックパンサー2』は、一本丸々を使って、シュリとその他のみんなが、ある種、群像劇的な形で、亡き国王の想いを継いで行く作品にならなければならない、と思う。一本全編に渡って、ティ・チャラの存在が中心になくてはならないのだ。

 

国王不在のワカンダに対して、ラトベリア君主ドクター・ドゥームが侵攻を開始するような状況は、十分にあり得ることではあるし、ティ・チャラ不在の状態でなお、ワカンダという国とその誇りにかけて彼らは戦わねばならない。

 

だから、例えばではあるが『ブラックパンサー2』のポスターイメージ等においても、中心にはティ・チャラ(あるいはブラックパンサー)がいるべきである。あるいはこちらに背を向け、横顔だけが見えるような格好なのかもしれない。そしてシュリをはじめとする周囲のキャラクターはその周りに散りばめられる、というような構図が望ましい。映画全体としてもそうした構図の元にデザインされるべきだと思う。

 

そこまでして、ようやく、なんとか、バトンが繋がる、というものである。そうした手続きを踏んだ後に、正式にシュリを主役として『ブラックパンサー3』となるべきだ。ティ・チャラとは、ファンの中でも既にそれだけ偉大な存在となっている人物である。

 

しかし他でもない、MCUである。ファイギ氏がプロデュースを続ける間は、下手なことはすまいと、信頼してはいる。

 

それにしても、marvelコミックスにおいては、ブラックパンサーといえばファンタスティック・フォーファンタスティック・フォーといえばブラックパンサー、である。MCUでのファンタスティック・フォーの登場にも期待が高まる中、彼らと国王との共演が観られないと思うと、それは本当に残念至極である。

 

おそらく、コミックス中でのブラックパンサーファンタスティック・フォーの関わりの深さも込みで、ドクター・ドゥームの登場が企図されていたのだと思うのだが……。

 

また、初期アベンジャーズ誌においてもブラックパンサー陛下の姿は印象的で、彼がメンバーとしているだけでクラシックな「アベンジャーズ」っぽさが上がったものであるが……。キャラクターとしてもティ・チャラは本当に他に替えがたい人物であると痛感する。

 

せめても彼の不在とその存在の偉大さを、大切に扱って欲しいと思う。